難波寺由緒

難波寺は大正14年、近鉄電車が上本町に駅と本社を建てる
ため、東高津神社・源正寺と共に立ち退きとなり、現在の生野区
巽北
1丁目に移転しました。移転前は、野中の観音と呼ばれ
人々の信仰を集めていました。

難波寺は寺伝によりますと、天平8(西暦736年)821
奈良の東大寺の落慶開眼供養のためにベトナムから楽士
(音楽家)
迎えるため、聖武天皇が行基菩薩に命じて高津の浜に精舎を
建立したものと伝えられています。また、観月の名所で、
聖武天皇もよく臨幸され、月江山難波寺という名も天皇より
賜ったものです。

開山当初は天台宗近江三井寺の直末でありましたが
元弘2年(1332年)戦火により消失して荒廃大破。
延宝6年(1678年)に妙心寺塔頭後花園院の徒弟
卓同和尚が難波寺に入って寺于を再興し
以来臨済宗妙心寺派に属しています。

本尊十一面観音菩薩は行基の作と伝えられています。
この観音菩薩は、平家物語に出て参ります悪七兵衛景清の守本尊、
念持仏でありましたが、縁あって難波寺の御本尊となっています。

悪七兵衛は藤原景清という武士で、源頼朝の暗殺を企て
牢屋に入れられますが、怪力無双で、頑丈な牢屋を
次々破り脱出したそうです。最後に自分の悪行に気づき
改心して、自らの両目を抉り出し、仏門に入ったと伝えられています。

この観音菩薩が、野中の観音と呼ばれ人々の信仰を集め、
難波寺は大阪三十三ヶ所観音巡り第十三番の札所となりました。
当時の札所を示す石碑が境内に残っています。


 
浄瑠璃・歌舞伎の演目に「茜染野中隠井」
(あかねそめのなかのかくれい)があります。
元禄二年四月十九日梅渋由兵衛が妻の弟丁稚の長吉より
百両の金を奪うために刺し殺し遺体を井戸に投げ込んだという話です。
その井戸枠と、ゆかりの墨掛地蔵があり
大阪四十八地蔵巡り第三十番となっています。
 江戸時代に描かれた「浪華百景」という大阪の名所を集めた絵があり、
 難波寺は最後の百番目に描かれています
 その他、境内には、波切不動石像地蔵菩薩木像大黒天像
毘沙門天像、不動明王像、末広明神、難波寺形手水鉢等が残っています。